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シュレーディンガーのノリスケ

September 22, 2017

お久しぶりです。不屈の卑屈のVo.折笠です。

夏もそろそろイベントぶっ通しでいい感じに夜明けを迎え、機材をまとめて始発で帰りたがってそうな素振りを見せてますね。

寒暖の差がハードなので、日中暑くても皆さん冷えて風邪を引かぬよう上着を用意してください。

注意が必要です。(※あとこの記事もかなり長文です。注意してください)

 

僕は久々のブログ更新ですが、まず皆さんにお詫びを申し上げます。

2017年9月30日に吉祥寺WARPにて開催を予定しておりました、不屈の卑屈オールナイトイベントは、開催延期となりました。理由はバンド内のイベント運営における様々な一身上の都合です。大変申し訳ありません。

中止ではなく、今後タイムテーブルや内容を練り直し、改めて来年2018年春に開催を予定しております。詳細は追ってお伝え致します。

今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。

 

年内おそらくまだいくつか不屈の卑屈のライブ出演もありますので、SNSやこのサイトから発信してゆきます。

 

そして話を戻せば秋ですが、今年の夏は気候の変動が凄まじかったですね。

まるで世の中全体の心の揺らぎようを表現したかのような空模様に、落ち着きが持てなかった人も多かったのではないでしょうか。

でもそれでいいんです。大丈夫です。

照りつける太陽とそれを跳ね返すアスファルトの焼ける匂い。夕立と共に落ちる金色の陽の光。その風景の連続の夏も恐ろしく素敵なんですが、梅雨が記憶喪失になって居候しているような雨ばかりの8月、晴れているのに妙に寒い夕顔が咲く夜など、予想をランダムに裏切る夏もこれまた良いものです。というかその夏のほうが実際は自然な姿なのかもしれません。四季の有り様は人間の都合なんかガン無視で回るのが自然界のスタイルなわけですから、そんな都合のよい「姿」を夏に要求するほうが身勝手というものですよね。「姿」と言いますと、なんとなしに思い出す物語があります。

 

それは僕が昔見たアニメのサザエさんの一話です。うろ覚えですが確かこんな話でした。

ある日、磯野家のトイレに誰かが入り、そのまま居座ってしまいます。家族は一人、また一人とトイレ前に集合し、結果磯野家全員がトイレ前に集合します。かつトイレ内の人間も黙秘を続けるので、いったい中には誰が入っているんだ?と騒ぎになります。何度呼びかけても、ドアを叩いても、叩き返すが声を出さず、外にも出ない「誰か」。結果この話の尺を一話丸々使用してそれが誰なのか磯野家で推理するのですが、最後ドアが開くとそこに入っていたのは、

カツオの従兄弟にあたる「ノリスケ」でした。

彼はなぜ黙って磯野家のトイレに立てこもったのかを糾弾されると、「慌てて入って、最初イタズラのつもりで黙っていたら、出るタイミングを無くした。」と説明し、

家族と親戚一名はお互い力技の愛想笑いで事を笑い飛ばし、物語は幕を閉じます。

 

 これと似た構造を持つ事物に、「シュレーディンガーの猫」というものがあります。

「シュレーディンガーの猫」(※長いので以下よりシュレ猫と記します)は、量子力学という学問の中で行われる実験内の「結果」「確率」「判断」の矛盾を指摘するために、実際には行わず頭の中だけで「仮定」して考えてみる「思考実験」のひとつなのですが、その内容はこうです。

 「中が外から見えない箱の中に、放射性物質のラジウム(これ自体はここでは無害)と、そのラジウムからα粒子という粒子が出た時にだけ、それを感知して吸ったら即死の毒ガスを出す機械装置を入れ、そこに生きた猫を一匹入れます。一時間ほっといてラジウムからα粒子が出る確率を、50%と決めたとすると、一時間の間、中の毒ガス装置が発動する可能性は50/50だから猫がその一時間の間に死ぬ可能性も50/50。つまりその間、箱の中で何が起きてるか全く見えない状態では、「生きている猫と」「死んでいる猫」が同時に存在していることになる。マジかよ。」というものです。

なんでこんなことをシュレーディンガーが考えたのかというと、「目に見えないものを観測する実験は、こう考えたら矛盾だらけじゃん。そこんとこどうなの?」と指摘したかったらしいのですが、詳しい考察は僕もそこまで詳しくないのでここでは割愛いたします。

シュレ猫は、目的も内容もノリスケとはほぼ関係ありませんが、「姿」が見えないという状態に面した時の人間の心の有り様という観点から見ると、共通するイメージがあります。

トイレ内に無言で立てこもったノリスケは、ふだんあれだけ仲良くしている磯野家に全く気づいてもらえず、自身はトイレ内で想定するこれから訪れる「結果」に、最適な理由がないという不安で押し黙るしかありません。トイレのドアの外の世界では「我が家」という安心の環境の、「トイレ」というパーソナルスペースの極地に、突如現れた「姿」の見えない訪問者に家族一丸となって怯えています。

この時、お互いの世界を断絶する「トイレのドア一枚」の壁を破壊したいという欲求は、おそらくどちらも50/50などではなく100パーセントの実感として、そこに存在したはずです。

 

つまり、頭の中にだけ存在する、「生きながら死んでいる猫を生む実験装置」を考えた人も、板一枚を隔てただけでお互いの認識を崩す家族も同じ、「姿」に向き合った人間の様相なのです。

 

考えた結果そこに矛盾が生まれようとも、「ここに、そうあってほしい」と思う気持ちは、人間の真理のひとつだと思います。予想と違う夏の季節の「姿」も、見えない状態で思う人の「姿」も、それはお互いに常に思い通りには重なり合わず、ちぐはぐのままそこに在るのかもしれません。

ですが、だからこそ尊いのかもしれません。

 

少し涼しくなると金麦のロング缶を片手に公園で夜中ずっとこんな事ばかり考えているので、

補導される前にどうか皆さんライブに様子を見にきてください。

姿がみえないうちにシャバから消えるのだけは、勘弁ですからね。

ではまた!

 

折笠

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